赤堀道元について
2025-11-10


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赤堀道元について

  赤堀家・中島本家・中島分家を併せて赤堀道元三屋敷という。その三家の関係は、

<div class="msg-pict"><a href="[URL]"
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赤堀家は藤原秀郷の末裔で治承4(1180)年赤堀郷の赤堀城を足利又太郎忠綱が居城としていてその子忠広が伊勢国へ移住した。戦国時代になり伊勢国4日市より赤堀上野介忠廣の次男良綱が上野国赤堀郷に移住した。24代綱歳が赤堀上野介赤堀入道で道完と言い現在地に館を定めて道完屋敷と言ったがウ冠が取れて道元屋敷になったとの赤堀家伝承があるという。中島家は戦国時代の川中島合戦で武田信玄配下で戦った中島筑後守盛信の子の信利が赤堀に土着した。その後各種事業に失敗するまではこの地の資産家であったという。赤堀家は養子を中島家から秀信源八を迎え家屋敷と赤堀姓の跡を継がせた。その源八が酒造業を延享元(1744)年に始めて200年続き繁盛したが酒造の衰退とともに昭和になり35代の時に落雷火災で廃業し道元三軒の一角が崩れたという。中島本家も事業に失敗してその後本間家に家屋敷を譲り東京に出て行った。中島分家は文化12(1812)年に本家より弟の祐八(初代祐八)が分家してこの時道元三軒になった。この中島分家は関根屋の屋号で第二代祐八の時に商売に成功して、道元の店と言われ大いに繁盛していた。第二代祐八は利根郡奈良村の石田家から養子に入った人である。第二代祐八(幼名逸作、後に量平と名乗る)の実父は石田良助忠超(初代良助)と言いその石田良助忠超も石田家に養子に入った人で、倉賀野城主金井淡路守の後胤金井源蔵賢敦の次男である。3代祐八は明治時代に衆議院議員として明治25年以来7回当選して活躍していたが病気で大正2年没し多大の借金を4代祐八に残した。足尾鉱毒事件で田中正造とともに戦っていた左部彦次郎もその3代祐八の援助を受けた一人である(左部彦次郎にとっては祖母とさの弟の子)。その中島分家も昭和に入り衰退して第二次大戦中にその関根屋を閉店した。現在は三家共になく中島分家跡に「道元三屋敷由来」の碑が建っていて「ほたるの里公園」になっている。

資料:
@伊勢崎市立赤堀図書館所蔵「ふるさとをたずねて 明治大正篇第一巻」赤堀町郷土研究会編集平成2年発行、(中島敏夫は3代祐八の孫)。
A群馬県立文書館石田侃家文書<石田家家史:文化十三(1816)子年 二月良助来ル栃久保村金井源蔵賢敦之次男也、先祖ハ倉賀野城主金井淡路守土岐澄政之後胤也、(石田良助初代、良助忠超タダオキ、通算14代?)
[徒然なるメモ]
[歴史 利根沼田関連]

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